どしゃぶり

  

 

 毎日ぐずついた天気が続いている。
 
 天気予報は、東京の梅雨入りを伝えていた。
 
 今日も空はどんよりと曇っていた。
 


 入社して二ヶ月のぼくは仕事にも慣れ、精力的に仕事をしている。

 予定だった。

 この二ヶ月で覚えたことは、体力を犠牲にした毎日の酒と学生時代の振り返り方だけだ。

 大した志を持っていたわけではない。

 特別な野心を持って出世を目指そうとも考えてはいない。

 ただ親父のような普通のサラリーマンになりたかった。

 営業一筋で四十年やってきていた。

 今年、還暦を迎えて退職。

 地味で口数が少なく、不器用な人間だ。

 営業とは無縁に見えた。

 それでも四十年勤め上げた。

 今度はぼくの番だ。

 人並みにスーツを着て、ネクタイを締め、名刺を配る。

 そんな会社員になろう。

 親父の姿が教えてくれたことだ。

 

 ヘルシークラウン、営業一課所属、営業、林秀雄。

 これがぼくの肩書きだ。

 健康食品の営業。

 しかし、ぼくに商品に関する知識はほとんどない。

 研修中に教えられたことは、

「いかにして買わせるか」

 その一点だけだった。

「年寄りの与太話にとことん付き合え。優しい青年だと思われれば勝ちだ」

「どんな方法でもいい。とにかく契約書に判子もらえばいい」

「食品の効果は信じる心が作るものだ。信じさせろ」

「体の心配を煽れ。年寄りなんかどこか悪いもんだ」

 一ヶ月、そんなことだけを教え続けられた。

 そして、一つも売れないままに二ヶ月が過ぎていた。

 
 改札を出ると広場と言った方がよいロータリーが広がる。

 バス停の看板は錆び付いている。

 もう何十年もあるだろう小さなたばこ屋。

 唯一の自慢のようにある大きな木。

 それらしい由来を説明した立て札がそばに刺してある。

 人間の気配がない。

 生命力が乏しい街だった。

「はいはい。こんな所が一番狙い目なんですよね」

 ため息混じりに独り言。

「何もないところは年寄りが多い。お前でも売れるだろ。行って来い」

 上司に言われ、東京から二時間電車に揺られてきた。

 ダラダラと歩き出す。

 特別なことは何もしない。

 チャイムを押して、ドアが開くのを待つ。

 開いたドアから出た顔に向かって、元気に明るく

「こんにちは。ヘルシークラウンの林です」

 後は世間話に持っていけるかどうかだけだ。

 
 上司の言ったとおり老人ばかりの町だった。

 一面の畑の中に点々と家がある。

 新興の住宅街もあったが、そこは素通りする。

 狙いは老人だけだった。

 三十軒も回ったところで小さな体のおばあさんが話を聞いてくれた。

 旦那さんを亡くし、一人で暮らしていた。

 最近、血糖値が高いらしい。

「おばあちゃん、一人じゃ何かと心配だよね。このお茶飲んでみなよ。中国では医療品として認可されてるんだよ。血糖値なんかすぐに下がっちゃう」

 ぼくのいい加減な説明を一生懸命聞いてくれる。

 気がつけば一年分、十万円の契約書に判が押されていた。

 すぐに会社に電話を入れる。

「桑爽茶、一年分の契約取れました」

 快活な声で報告を入れる。

 電話の向こうでは上司らの歓声が聞こえる。

「もう少しがんばっていきます」

 初めての営業成績。

 一割は歩合給としてぼくの給料になる。

 一万円。

 ちょっと飲みにいけばなくなる金額だった。

 それでも、これで営業マンとしての一歩を踏み出した。

 だが、達成感は微塵もなかった。

 あるのは自分に対しての嫌悪感。

 今すぐに契約書を破りたい衝動に襲われる。

 濃いねずみ色の空からポツリポツリと雨が落ちてきた。

 
 雨足はみるみる激しくなった。

 畑の一本道を駅に向かって歩く。

 走る気など全くない。

 むしろ心地よかった。

 鞄の中にカサは入っている。

 それでも差す気持ちにはなれなかった。

 雨に濡れることで自分の行いがゆるされるような気さえする。

 ぼくはこのまま生きていくのだろう。

「生活するためには仕方がないよ」

 自分をごまかす言葉を覚えていくのだろう。

 笑いが込み上げてくる。

 大きな声で笑った。

 立ち止まり、身をよじって笑い続けた。

 長い時間笑い続けた。

 
 どこからか視線を感じた。

 どしゃぶりの雨の中、誰も歩いてはいないはずだった。

 ところが、5メートルほど前に一人の少女が立っていた。

 やっと小学生になったくらいだろうか。

 立ち止まってじっとぼくを見ている。

「こんな雨なのにどうした。カサは持ってないの」

 聞いても少女は黙っていた。

「カサ貸してあげようか。おにいちゃん持ってるよ」

 鞄からカサを出そうとした時だった。

「おねえちゃん。早く帰ろうよ」

 子どもの泣き声が聞こえた。

 すると少女はくるりと後ろを向いて歩き出す。

 ぼくは目を疑った。

 少女の背中には四歳くらいの女の子が背負われていた。

 さほど体の大きさもかわらない。

 引きずるようにして少女は一歩一歩進んでいた。

 カサを差しかけながらぼくは少女に近づく。

 肩で息をして、目は真っ赤になっている。

 かたく噛まれた下唇が涙のこぼれることを押さえている。

「カサあげるから。二人で歩いて帰りな」

 ちらりとこちらを見て、それでも少女は歩くことをやめようとはしなかった。

「大変だろ。妹にも歩いてもらえばいいじゃないか」

 前を見たまま少女が口を開いた。

「もう歩けないって言うから」

 妹は背中で眠りそうになっている。

「それでは、君が大変だろ。そんなにがんばらなくてもいいじゃないか」

 少女の歩みが止まる。

 不思議そうな顔でぼくの顔を見る。

「だって私、お姉ちゃんだもの。当たり前じゃない」

 少女の顔に一瞬笑みが広がる。

「だから、やらなくちゃいけないことはやるの」

 それだけ言うと、またゆっくりと前に進み出す。

 ぼくは呆然と少女の後ろ姿を見ていた。

 姉という誇りを背負った姿は威厳さえまとっていた。

 
 カサを差した。

 ぼくの体温を奪っていた雨が消える。

 体に温かさがもどってくるのがわかる。

 足を前へ踏み出すと革靴に水が染みた。

 それでも足は前に向かった。

 ネクタイを外した。

 風が襟元から入ってきた。

 ポケットから名刺入れを取り出す。

 中から抜き出した名刺は全部水浸しだった。

 両手に力を入れる。

 名刺は簡単に二つに破れた。