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病室には穏やかな空気が満ちている。
ラウンジの方から楽しそうな話し声が聞こえる。
ほんの少し前まで私もおしゃべりに参加していた。
初めての妊娠ではないので大きな不安はない。
体調も安定していたので無事予定通りに出産できるようだった。
もうすぐお兄ちゃんになる正人は私が入院してから毎日病院に来ていた。
背中に大きなランドセルを揺らしながら、部屋に入ってくる。
そして、一日あったことを一生懸命私に伝える。
けれど今日は来るかわからなかった。
昨日のことだった。
「もう、お菓子も買ってある」
明日は自然公園に遠足だ。
「楽しみだね」
「うん。今日、学校で公園にある植物の勉強もしたし」
そこまで言うと正人は思い出したように聞く。
「かあちゃん、金木犀って知ってるか」
「知ってるわよ。甘くていい匂いがする木でしょ」
「なんだ、知ってるのか。つまんないの」
正人は残念そうな顔をした。
「どうかしたの」
正人は黙って何か考えていた。
私がいない間は家には母が来てくれている。
お弁当の心配もない。
「お弁当はおばあちゃんに頼んであるから大丈夫よ」
「そんなこと心配してないよ」
私の言葉に頬をふくらませた。
「もういい。帰る」
そのまま部屋を出て行った。
正人はまだ甘えたい年齢だ。
実際わがままばかり言っていた。
だが妊娠してからはわがままを言わなくなった。
もしかしたら私は正人にさびしい思いをさせていたのかもしれない。
すると、いつものように正人が飛び込んで来た。
ランドセルはお休みで、青いリュックサック。
土で汚れた顔は正人の大活躍を語っている。
手には駄菓子屋さんの茶色い紙袋が握られていた。
「おかえり。楽しかった」
まだ肩で息をしながらコクンとうなずく。
「あらあら、顔を真っ黒にして」
私がタオルで顔を拭こうとすると、正人は紙袋を持つ手をつき出した。
「かあちゃん。目をつぶって開けてみて」
紙袋を手に取る。
「おやつの残りかしら」
「いいから早く」
言われたとおりに目を閉じ、袋を開く。
部屋一面の空気が甘い橙色にぬられる。
目を閉じた私のまぶたに広がる風景。
大きな金木犀の木。
その下で走り回る正人の姿。
そっと目を開いた。
紙袋の中をのぞくと小さな金木犀の花がたくさんつまっていた。
「昨日、先生が金木犀はすごくいい匂いがするって言ってて、かあちゃん知らないだろうからびっくりさせようと思ったのに、聞いたら知ってて、でもすごくいい匂いだから、やっぱり持ってきたくて、それに赤ちゃんは金木犀知らないだろうし・・・だから、かあちゃんはつまんないかもしれなけど、かあちゃんと赤ちゃんに持ってきた」
正人は顔を赤くして一気に喋った。
正人の思いがつまった袋。
私は思いをいっぱいつめこんで正人を抱きしめた。

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