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真っ黒な空に月だけが光っている。
風は涼しく、虫の声が聞こえる。
今年の暑かった夏は終わりを告げていた。
大きな家が続く住宅街を健史はいつものように歩いていた。
重いカバンは肩にくいこむ。
国語辞典、英和辞典、英数国それぞれのテキスト、ノート数冊、筆箱、
そして数え切れないプリント。
カバンには希望がつまっている。
このカバンを重いと思ったことは、一度もなかった。
辛かったはずの夏期講習も、夢に近づくことが嬉しくてあっという間に過ぎた。
気がつけば十月になっていた。
もうひとふんばり。
半年後には田久保先生の授業を受けることができる。
先生との出会いもちょうど半年前だった。
先生が書いた一つの文章。
何気なく読んだ新聞の随筆だ。
動物の複雑な生態を、中学生の健史にもわかるように書いてあった。
簡単な言葉で綴られたその文章は今まで健史が疑問に思っていたことを氷解してくれた。
その後田久保先生の本を読み漁った。
全部の本が彼の思考を震わせる。
田久保先生の授業を受けたい。
強い思いが生まれた。
もともとそれなりに勉強はできた。
しかし有名な学校に入ろうとは思っていなかった。
一流大学、一流企業に入って、そこから独立。
経営者として成功している父には何も魅力を感じなかった。
人並み以上な生活をさせてもらっていることへの感謝だけだった。
同級生が必死に勉強する姿を、むしろ冷めた目で見ていた。
当然、成績も中の上といったところ。
毎日が平穏に過ぎていくことだけが健史の望みだった。
タバコもお酒も興味がない。
女の子もどうでもいい。
欲しい物もない。
生まれてから喧嘩もしたことがない。
全て面倒だった。
そんな健史が初めて持った欲求が田久保先生の授業を受けることだ。
一つ問題がある。
田久保先生は東京で一番有名な私立高校の先生だった。
今の自分ではどうやっても入ることはできない。
勉強するしかなかった。
まったく行くつもりがなかった、塾に通いだした。
勉強しろとうるさかった親は喜んだ。
親の気持ちには興味がない。
正直、高い学費を出してもらえればそれでいい。
学費は親にとってたいしたことではないことはわかっている。
親のおかげで求める場所へ行くことができる。
それだけはありがたいと思う。
成績はみるみる上がった。
今では学年でも三番以下になったことはない。
この調子なら合格は確実だ。
もうすぐ夢は現実になる。
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