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いつものように鍵を開けて家に入った。
小さな声で
「ただいま」
と挨拶をして靴を脱ぐ。
何かがいつもとちがう。
空気が重い。
いつもは聞こえてくるテレビの音もしない。
玄関の靴を見ると、珍しく父が帰ってきていた。
時計は十一時を回っている。
「ただいま」
今度ははっきりと聞こえるように言った。
「ちょっと、こっちにきて」
リビングから声がする。
おかえりの返事もなく、母に呼ばれた。
スーツも脱がずに座っている父。
ぼんやりと天井を見ている母。
二人には悲壮感が漂っていた。
ドラマの一場面のような二人の姿に、健史は思わず笑いそうになってしまう。
あまりにお決まりの場面。
これで父が失業でもしていれば、三文芝居が出来上がる。
「そこに座ってちょうだい」
健史を見もせずに母が言う。
言われた通りに座る。
「お父さんの会社が倒産したの」
「へぇ、そうなんだ」
健史は気のない返事をした。
実感がない。
自分とは関係のないことのように感じた。
父は黙って、身じろぎもしない。
瞬きもせずにテーブルの一点を見つめている。
健史は本当に三文芝居ができあがったことが可笑しくて仕方がない。
「この家も売りに出さないといけないわ」
母は事務的に話を続けた。
「どこに引っ越すの」
荷作りの面倒を考えていた。
「まだ決まってないわ」
この時期、転校するのは嫌だがその程度は仕方がないだろう。
さいわい特に仲の良い友達もいない。
むしろ集中して勉強できるかもしれない。
「へぇ、そうなんだ。話はそれだけかな。ぼく、塾の宿題があるから」
健史が立ち上がると母が言った。
「塾も今月までね」
「塾は電車で通えるから。今、塾を替えるのは勘弁してほしいな」
「塾もやめるしかないの」
平坦な母の言葉だった。
健史にとって父の失業が実感となる。
塾をやめるということは、私立高校の受験をやめることだった。
田久保先生の授業を受けることもできない。
「受験はどうなるんだよ。学校の勉強だけで合格できるわけないじゃないか」
母は何も言わない。
時計の音だけが規則正しく鳴り続けた。
「どうしようもないのよ」
母の目から涙があふれた。
「なんだよそれ」
健史はテーブルを叩いて怒鳴った。
「絶対、行くからな」
リビングを出る健史に、父が初めて口を開いた。
「すまん」
返事もせずに自分の部屋に飛び込んだ。
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