満月



 リングがミルクを飲んだ。

 このたった一つの事実は健史の感情を呼び戻した。

 人間は思ったよりも簡単にできているらしい。

 しっかり生きよう。

 健史の中に新しい気持ちが芽を出していた。

 しかし、あの家には帰りたくはなかった。

 疲弊した空気が充満した空間。

 芽は一瞬で摘み取られるかもしれない。

 足は家とは逆を向いている。

 飲み屋街から聞こえる大きな声。

 初めて酒を飲んでみたいと思った。

「甘ったれてるんじゃないよ」

 路地から酔っ払いの声がする。

 思わず見てしまう。

 二人の中年の男だった。

 一人は上等のスーツを着たビジネスマン。

 そしてもう一人は父だった。

 男は父に罵声を浴びせ続けていた。

「そりゃあ、昔はお得意様でしたよ。でもね、今じゃあんたはただの中年」

 父は黙っていた。

 健史の知っている父ではなかった。

「まぁ仕事を世話しないこともないですけどね」

 男は言う。

 嘲りが込められた言葉だった。

「よろしくお願いします」

 父が深々と頭を下げる。

 何かが違う。

 手に汗が滲む。

「じゃあ、土下座でもしてもらいましょうか。『よろしくお願いします』ってね」

 父の肩が震えた。

 ゆっくりとひざを折る。

 やめろ、やめてくれ。

 健史は飛び出しそうになる自分を必死で抑える。

 父のひざは地面に到着した。

 肩はずっと震えている。

「よろしくお願いします」

 哀しい声だった。

「まさか本当にやるとはね。はいはいわかったよ」

 男の笑い声が響く。

 野次馬もみんな笑っていた。

「しかし、情けない人間だね。これじゃ自慢の息子もろくでなし決定だな」

 父がすっと立ち上がった。

「あいつはいつでも自慢の息子です」

 伸びた背筋。

 強い視線。

 よく通る太い声。

 そこに父がいた。

「そんなにムキにならなくてもいいじゃないか。冗談だよ、冗談。まぁもう一軒つきあえよ」

 父と男は近くの居酒屋に入っていった。




 
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