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彼女はそこに立っていた。
ただ静かに立っていた。
緑の草むらに真っ白なワンピース。
太陽は暑い日差しを、僕だけに浴びせた。
タンクトップから伸びた僕の腕をじりじりと焼き続けた。
皮膚からは汗が溢れ続けた。
暑かった。どうしようもないほど暑かった。
彼女の周りには目に見えない何かが張られていた。
彼女の周りだけは明らかに涼しげな風が吹いていた。
セミが鳴いていた。その命が果てるまで鳴きやむことがないかのように鳴きつづけていた。
僕は阿呆のように立ちすくんでいた。今まで一度も感じたことのない恐怖にとらわれていた。草むらまで来た理由も忘れてしまっていた。
これは何?
僕はどうなってしまったのだろう。何も考えられない。動くこともできない。ただ、ひたすら彼女を見つめることだけを続けるしかなかった。
「これ」
彼女の口がゆっくりと動いた。手には土で汚れた野球のボールがのっている。
「探してたんでしょ」
僕は何も答えられない。にらむように彼女に視線を向けることしかできなかった。
くすりと笑い彼女は僕に向かって歩き出した。僕の鼓動はみるみる速度を上げていく。
一歩。また一歩。ふわりと涼しげな風を感じたときには彼女は目の前に立っていた。
「どうぞ」
真っ白な細い指。汚れたボールはあまりにも不釣合いだった。僕は黙って下を向いていた。彼女を見ることもできなくなっていた。考えていたことはたった一つだ。自分が汗臭くないか。なぜだかわからない。けれど、そのことで頭はいっぱいだった。胸の中では運動会が始まっている。今にも心臓が飛び出しそうだ。
もう、ここにはいられない。そう思った時にはボールをつかんでいた。振り向きもせずに走り出した。何から逃げたのかわからない。ただ僕は間違いなく逃げ出していた。
「ぼけっとしてないで、さっさと食べなさい!」
母さんの声で僕は我にかえった。
「うるさいな。わかってるよ」
口答えにはいつもの元気はない。不可解な感情からいまだに抜け出せないでいる。さっきの恐怖はなんだったのだろう。僕は度胸が座っているほうだと思う。修学旅行の肝試しでも、普段は威張っている信也が怖くて泣いているのが不思議でならなかった。中学生にお金を取られそうになった時も僕だけは最後までお金を出そうとはしなかった。まあ、最後にはぼこぼこに殴られたのだけれど。その時ですら怖くはなかった。理不尽なことに対しての怒りだけだった。力のない自分にとても腹が立っただけだった。
だから、今日の自分が信じられない。ただの女の子にどうしてあんなに恐怖したのだろう。そもそも何が怖かったのかもわからない。わかることは彼女を見たとき、僕の心臓はすごい速さで動き出したことだけだ。
「きずく、あんたいい加減にしなさい!」
怒鳴り声が響いた。僕の箸はまた止まっていたみたいだ。それにしても納得がいかない。どうしてあんなことになってしまったのだろう。いくら考えてもわからない。
僕はなんとなく聞いてみた。
「教えてもらいたいことがあるんだけど」
「何よ。勉強だったらお兄ちゃんに聞きなさい。私じゃわかんないわよ」
母さんの声から弱気になる。
「違うよ。母さんに勉強なんか聞くわけないじゃん」
「何?なんでも聞いてごらん」
自信満万。
「人間てさ、どんな時に心臓が速くなって、胸がどきどきする?」
「好きな人に会った時」
即答。
「母さんなんか初恋の人を見かけるだけで胸が苦しくなったものよ。何、あんた生意気に好きな女の子でもできたの?」
好きな人に会った時?なんだそれ。女子なんて、うるさくて、遊んでもつまらなくて、いっつも何人かでかたまって噂話ばっかりしてるだけじゃないか。そんなものに会って胸が苦しくなんかなるはずがない。でも、今日の僕の胸は確実に苦しくなっていた。そして、今の言葉でまた胸が苦しいような気がする。やっぱりわけがわからない。
「違うよ、そんなことあるわけないだろ」
僕は乱暴に茶碗のご飯を口にかきこんだ。
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