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 僕は教室で言葉を失っている。目の前には信じられない光景があった。いつもの教室の、いつもの黒板の前に、いつもの先生と一緒に彼女が立っていた。
「転校生の岩城りえさんです」
 先生が紹介する声など耳にも入らなかった。理解できない感情がふつふつと湧き上がる。
「岩城りえです。よろしくお願いします」
 あの声だ。決して大きくはないのに、良く通る透明な声。僕は彼女をじっと見つめた。
 彼女が僕の視線に気がつく。表情は何も変化しなかった。昨日のことを覚えてはいないのだろうか。それでも僕の顔は引きつるばかりだ。
「じゃあ、岩城さんの席はあそこね」
 先生が指差したのは僕の隣りの机だった。

 「さぁ、授業を始めますよ」
 転校生の登場にいくらか落ち着かない雰囲気で授業は始まった。みんな彼女をちらちらと気にしながら先生の話を聞いている。けれど、僕の落ち着きのなさは群を抜いていただろう。息をするのですら緊張を含んでいる。
 彼女はそんな状態を気にする風でもなく黒板の方を向いていた。
「野球って楽しい?」
 視線は黒板を向いたまま彼女が言った。
「えっ?」
 僕はまたうまく返事ができない。
「私、やったことないから」
 返事を待たずに言葉を続ける。なんとか質問の答えを声にする。
「つまんなかったら、やんねぇよ」
 黒板を向いていた視線が一瞬こちらに変わる。にっこり笑うと彼女が言った。
「今度、教えてね」
 
 この日から僕の生活は一変した。する、と思っていた。
 しかし、見た目には何も変わらなかった。
 鼓動は相変わらず速くなる。しゃべる時はうまく言葉が出ない。隣りの存在が気になってしかたがない。僕の中では大変なことになっている。それでも何もかわらない。彼女はだれとでも仲良くなった。クラスのみんなと平等に接していた。それは僕も例外ではなかった。まるで、前からいたかのように自然に振舞っていた。転校生という名前は瞬く間に消滅していた。
 ただ、一つだけ彼女には特別な所があった。体育の授業だけは絶対に参加しない。いつも、校庭のそばで見学している。体育だけが楽しみの僕から見るとその姿はとても不思議な光景だ。はじめはみんなも気になっていたようだが、知らぬ間に彼女の見学は当たり前のものとして受け入れられていた。先生の「彼女は体が丈夫ではない」という説明だけで納得していた。
 今日の体育も彼女はいつもどおりだった。まだ、夏の日差しが残る暑いグランドで、みんなサッカーをしている。日差しを避けるかのように木陰に座って彼女は校庭を見つめている。木陰は彼女の色の白さを際立たせた。
 この数週間で僕は明らかに彼女を女の子として意識している自分に気がついている。母さんに言われたことは外れてはいなかったようだ。好きなどというはっきりしたものかはわからない。ただ、少なくとも胸の鼓動が恐怖でないことだけはたしかだった。
 彼女の見学は僕にとって都合が良いこともある。僕は体育だけは得意だ。運動会ではいつもリレーの選手になってきた。来月の運動会でもリレーに出ることは決まっている。運動は唯一の見せ場だった。その姿を彼女によく見てもらえることが嬉しい。
 今日もはりきって校庭をボールを追って走り回っていた。身体はどんどん体温を上げていく。同時に僕の運動量もみるみる上がっていく。足元に来たボールに僕の運動量を思いきり込めたとき、ボールはゴールの中にいた。
「ゴォ〜〜〜ル!」
 先生がおどけてアナウンサーの真似をする。
 僕は彼女が見ていてくれたか気になって仕方がない。けれど、見ることができない。もし見ていてくれなかった時のことを考えると、どうしても振り向くことができなかった。
「私もやりたいっ」
 聞いたこともないような大きな声だった。全員がいっせいに振り向く。暗い陰から純白の彼女が飛び出してきた。みんな、しばらくは状況が理解できなかった。しかし、どこからか声が聞こえ出し、気がつけば大騒ぎになっていた。
「いっしょにやろう」
「早くおいでよ」
「体育着あるのかな」
「私、もう一つ持ってるよ」
 突然だった。
「走っちゃいけません!」
 先生の声が響いた。さっきまでおどけていた先生はもういない。真剣な顔で彼女を見ていた。
 彼女の足がぴたりと止まった。誰もしゃべろうとはしない。
「走っちゃいけませんよ」
 今度は静かに先生が繰り返した。


 
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