おでん


 世の中をなめていた。

 そこそこの有名私大。

 入った時には人生は安泰だと思い込んだ。

 遊びほうけた三年半で、盛り場ではちょっとした有名人になっていた。

 気がつけば遊び仲間はみんなネクタイを締める準備をしていた。

「会社でも起こすか」

 そう言っていた奴が一番初めに就職を決めた。

 周りもなんとか半年後の仕事を決めていく。

 僕だけが派手なネオンの中に取り残されていく。

 面接官に聞かれた言葉が耳の中をかけめぐる。

「大学時代にやってきたことはなんですか」

 光も、音も、酒も、人間さえも全てが幻だと気がついた時には遅かった。

 僕には何もない。

 いくら考えても社会で認められるものは何もなかった。

 真っ黒に染めた髪。

 着慣れない紺のスーツ。

 地味なネクタイ。

 馬鹿にし続けたものたちが、僕の体を覆っている。

 就職なんて簡単に決まると思っていた。

 僕はなんでも器用にこなすことができた。

 勉強も遊びも、すぐに人よりうまくなる。

 いつも、中心で生きてきた。

 当然、仕事もそうなると信じていた。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 僕には何もない。

 

 今日も何も変わらないまま駅の改札を出る。

 帰宅する会社員たち。

 乱暴にネクタイを外す。

 彼らの中には特別な才能が入っているような気がする。

 ネクタイは握り締めたまま急いでアパートに向かう。

 僕はここにいてはいけない人間なんだ。

 三年とちょっと歩き続けた道をとぼとぼ歩く。

 何一つ面白みも感じなかった道だった。

 つまらない住宅街。

 僕の目は光だけを追っていた。

 ここには街燈の灯りしかない。

一つだけ、毎年寒くなると古ぼけたおでんの屋台が出ていた。

 くだを巻くおやじたちを見ながら、馬鹿にして通ったものだ。

 自分はその仲間に入ることすらできない。

 

そして、今年も屋台はあった。

いつもと同じ場所に、いつもと同じ匂いをさせていた。

 貧乏くさいと思っていただし汁の匂いが、鼻をくすぐる。

 気がつけば汚い長いすに座っていた。

 会社員の真似事がしたかったのかもしれない。

 不思議な安心感に包まれた。

 目の前にはいくつにも分けられた、おでんの鍋がある。

 ひとつひとつの具は小さく震えながら自分の出番を待っている。

 コンニャクにはコンニャクの、

ガンモにはガンモの、

大根には大根の、

ジャガイモにはジャガイモの味がある。

おでんたちが羨ましい。

枠の中に僕の場所はなかった。

「なんにしますか」

 屋台のおじさんの声で顔を上げた。

 おじいさんと呼ぶ方が適当かもしれない。

 柔和な笑顔が昔話を思い出させる。

「コンニャクと大根ください」

「コンニャクと大根ね」

 アルミの器を手に取ると、そっとおでんに箸を落とす。

 コンニャクは静かに揺れて器に入る。

 大根はおとなしく箸にはさまれ、くずれることもなく、器に入れられる。

 お玉で汁をかけると、ふわりと湯気があがった。

「はい、お待ち」

 箸で触ると大根がくしゃりと崩れた。

 箸の下手な僕は器を持って大根を口に入れた。

 大根の熱が舌に移る。

口いっぱいに広がるだし汁の味。

 噛まなくても崩れていった。

「うまいです」

自然に言葉が出た。

もうどれくらい自分の言葉を話していないのだろう。

面接用のよそいき言葉が僕の言葉だった。

「そう言ってくれると嬉しいね」

 嬉しそうなおじいさんの顔。

 もう一度おでんの鍋を見る。

 嬉しそうに並ぶおでんたち。

 目に涙が浮かぶ。

 僕も仲間に入りたい。

「どうした、おにいちゃん」

 涙が器に落ちた。

 落ち続けた。

 おじいさんは黙っていた。

 

気がつくと目の前にグラスがあった。

「おごりだ。燗つけてやるから」

 整然と仕切られた鍋に、アルミのカップを引っ掛ける。

 安い酒の匂いが鼻につく。

 おでんは迷惑そうに端による。

 鍋の異端者。

「それなんですか」

「なんだ、屋台は初めてか。こうやってお燗はするんだよ」

 だし汁に温められて、酒はいい匂いを漂わせた。

「おでんは酒がないと始まんないよ」

「入れたらおでんが崩れませんか」

「崩さないのが、俺の仕事」

 そう言って腕をポンと叩く。

 ゆがんだカップから酒を注ぐ。

 見事な熱燗だった。

「こいつには、こいつの仕事があるってね」

 コンとカップを指で弾く。

 熱い酒がのどを通っていった。