彼の手はいつも先にあった。

 いつも僕は先にある彼の手を見ながら泳いだ。

 初めて彼の手を見たのは、まだ十代の半ば。

 ジュニアの全国大会だった。

 自信があった。水の中の自分は王様だった。

 結果、僕は壁に触れる彼の手を眺めながら泳いでいた。

 彼はいつも英雄だった。



 彼の手を見ずに泳ぐ。

 気がつくと、そのために泳いでいる自分がいた。

 スタート準備の合図。

 空気が止まる。

 フラッシュバックが起きる。

 初めて水に入った時のこと。

 不思議と怖くはなかった。

 あるものは安心感。

 母親に抱かれているようだった。

 気がつけば、水の中は戦場になっていた。

 僕は戦い続けてきた。

 自分とではない。

 彼の手と戦い続けてきた。

 数え切れない借りを返す時が来た。

 
 パシャ。


 静かな水音がする。

 収縮した神経がゆるむ。

 目の先には彼の姿があった。

 フライング。

 英雄の大会は終わった。



 目の前に彼の手はない。

 後ろから無様に水をかく音だけがする。

 僕は独りで泳いだ。

 壁はすぐ前にきている。

 いつものように彼のコースを見る。

 手はあるはずもなかった。



 僕の代表は見えない手に勝って決まった。






 
あとがき
   ソープのフライングによる選考会失格。
   驚きでした。
   その後、代表選手の辞退。
   そして、出場。
   正直、鼻につく話でした。
   社会ってあいかわらずだな、という感じです。
   ですが金を取った時のソープを見て感じたことは
   「一番苦しかったのは、この人だったのかな」
   でした。
   水の中で一瞬見せた、うつむいた姿。
   天才の中に人間を見た気がします。
   代表を辞退した選手は・・・。
   そんなことを考えて書きました。