祖父の手帳



 森の中で暮らす男がいた。

 彼は一人が好きだった。

 人間の作った音は何もしない。

 風のそよぐ音、それにゆらされた葉がすれあう音、

 そして、時おり降る雨の音。

 時には激しく、時には優しく静かに。

 彼はそんな雨とだけ対話をした。

 雨が降ると決まって外に出た。

 彼女はゆっくりと彼を自分でいっぱいにしていく。

 彼の髪は彼女を迎え入れるにつれて、やわらかくなっていく。

 肩から指先へ彼女はすべりおりた。

 彼の上半身が、すっかり彼女でおおわれた頃には、

 彼の体はすっかり冷え切っていた。

 目に見えない何に押さえつけられているようだった。

 そんな時だけ、彼は生きていると確認できた。

 自分が自由であることを感じることができた。

 彼には何も必要なかった。

 そして彼はたった一人で老い、朽ち果てていった。

 土へ帰っていった。

 冷たい雨に打たれながら・・・。

 彼は世界で唯一の幸福な人間だった。


 堅物だった祖父が、幼い頃にしてくれた話だ。

 無趣味で無教養の彼は仕事だけにしがみついて生きてきた。

 定年後はただぼんやりと庭を眺めてばかりいた。

 その後ろ姿には、戦後の日本をささえた力強さは残ってはいなかった。

 あるのは気力のなえた頑固な老人の魂だけだった。

 私の記憶にある祖父の印象は、一つの話と、この後ろ姿だけだ。

 私は祖父が好きではなかった。

 むしろ、嫌いだった。

 祖父の祖母に対する厳格さは、幼い私には横暴として映っていた。

 二人の絆を理解するには、あまりに幼かった。

 いや、そんなものは初めからなかったのだろう。

 そんな、祖父が昨日亡くなった。




 
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